兼務神社

 神明神社
 豊園学区の神明町(綾小路通り・高倉から東洞院の間)に神明神社がある。
 ここは平安末期、近衛天皇(約850年前)が、しばしば皇居とされた藤原忠通(摂政)の屋敷跡で四条内裏または四条東洞院内裏ともいった。この邸内にあった鎮守の社が神明神社である。
 天照大神を祭神としている。創建年代は明らかでないが、藤原時代から今日まで人々の崇敬の社になっている。
 当社の宝物に「やじり」が日本伝わっている。社伝によると、近衛帝の時、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪獣が夜毎空に現われ都を騒がせた。これを退治せよとの命を受けた源三位頼政は、神明社に祈願をこめ、みごと怪獣を退治したその御礼に奉納した弓箭(きゅうせん)である。当社が厄除け、火除けの神と言われるゆえんである。この「やじり」は今でも祭礼の時に飾られる。
 藤原末期から天台宗の護国山立願円光院という寺となり社僧によって管理されていたが、明治初期の神仏分離によって神社だけが残され、神明町が管理の任に当たっている。昔、榎の大木があったので、榎神明ともいう。
 また、当社には豊園小学校内に祀られてあった文子天満宮の祭神が戦後合祀された。文子さんは北野天満宮創建の功労者である。小学校に祀られてあった頃から区民の信仰が厚い。
 毎年、9月15日には立派な子供神輿が区内を練り歩き崇敬を集めていた。近年は都市化とともに子供も少なくなり、近隣町内を練り歩くだけとなったが、昔の趣を今も伝えている。
 翌、9月16日は大祭日であり、かつては各戸趣向を凝らして飾物をし、町内いっぱいに露店も出ましたが交通事情の変化に伴い趣きも変わり、現在は厄除・火除祈願の御札と神饌を参拝者に授与しております。今も昔と変わらず町民・区民の神社詣も多く賑やかである。   
                                                『神明神社由緒書』から引用
御祭神 天照大神
祭典日
  1月2日元始祭
  毎月第2土曜日 10時 月次祭 (1月はございません。)
  9月第2土曜日 10時 月次祭 午後から神輿の巡行  翌日の日曜日 午前10時 例大祭
 11月第2土曜日 10時 火焚祭
    自由参拝

 尚徳諏訪神社
 第50代桓歩天皇の延暦16年坂上田村麻呂、蝦夷平定、征夷大将軍の命を受けました。将軍はかねてより信州諏訪大明神を深く信仰し、ご神威、ご加護のもと赫々戦果を挙げ平安京に延暦20年10月に凱旋いたしました。
 その御礼の為、都、五条坊門の南に社殿を造営、信濃より諏訪大明神の御分霊を勧請し祀られたのが当神社の創始です。爾来星霜を重ね社殿も荒廃いたしておりましたが、第82代後鳥羽天皇の文治二年、源義経社殿を広め、樹木を植え池を作る等して昔にまさる広大に神域といたしました。
 第96代後醍醐天皇の建武年間兵火に遭い、旧観とみに変じ再び衰微するも室町幕府(室町通今出川上ル附近)3代将軍足利義満神馬を奉納し神域を復活せしもようです。
 第108代後水尾天皇の慶長年間にも社殿の修復が行われ、更に徳川幕府5代将軍綱吉の頃には、境内に社殿復興の為の大相撲興行が行われました。第120代仁考天皇の元治甲子の年、禁門の変の兵火に遭い社殿、悉く鳥有に帰し再建も覚束なかったが、第121代孝明天皇の再建の資として金150両と菊御門堤灯壱対を御下賜下さるに及び大いに力を得、更に尚徳学区先人各位のご努力と相俟って慶応2年再建の業、完成いたしました。
 青丹よし奈良の都より、平安京遷都以来の京都の歴史が即、尚徳諏訪神社の歴史であり、今日に及ぶ次第であります。
御祭神 建御名方神(弟) 八重事代主神(兄)
 出雲、大国主神の御子でご兄弟の神、古事記、日本書紀の国譲りで有名な神である、生産開発の神として開運招福の御利益があります。諏訪大明神は「精進潔斎を形だけする者より、肉を食べても真心こめて祈る者を救おう」と言う広大無辺な、ご神徳の神様であります。殊に無病息災、健康と長寿を守る神として広く信仰されております。
                                            『尚徳諏訪神社由緒書』から引用
祭典日
  1月1日     歳旦祭
  3月17日    祈念祭
  9月第2日曜日  例祭
 11月17日    火焚祭